春を越える_____鳴神山の春2014年(後篇)

春を降りる(後篇)

 アカヤシオが終焉を迎える頃、山頂に新緑前線が達した。わずかに残っている薄桃色のアカヤシオはどんどん緑に凌駕されていく。新緑前線が到来する前に、春一番にアカヤシオが咲くのは理にかなっている。緑があったらアカヤシオはその美しさを存分に発揮出来ないだろう。アカヤシオの後を継いで咲き始めたミツバツツジの濃いピンク色は新緑によく映えていた。ミツバツツジは新緑の時期に相応しい。

 ミツバツツジが咲き始めた頃、ミツバツツジと同じく濃いピンク色のカッコソウが咲き始めた。こちらも大雪に負けずに沢山咲いた。ロープ越しに眺めるカッコソウは他の山野草と違って距離感があり、なんとなく花壇にある花を眺めているという印象が強い。しかしカッコソウが登山道に普通に咲いているところを想像してみれば、この山野草がいかに傑出した花かが容易に理解できる。カッコソウはその形といい、その色といい、山野草の範疇を超えた美しさを誇る。その稀有な美しさが自らを滅ぼす一因となってしまったのは美しいものたちの哀しい宿命だろうか。

 それにしても新緑の時期に咲く花達は緑に映える。カッコソウしかり、ヤマブキソウしかり。ヤマブキソウの大きな黄色の花弁を看過する人は誰もいないだろう。ニリンソウの後を継ぐ形でヤマブキソウが咲きだしたが、ニリンソウの終焉に寂しさを感じる暇はなかった。生命の終焉以上に新たな生命が出現しているのだから。樹木ではヤマブキの代わりに白いヒメウツギが咲き始めていた。白い花だが黄色のヤマブキに優るとも劣らない華やかさがあった。

 植林で大方暗いコツナギ登山道の中で日当たりのいい場所がある。照明を落とした劇場に突如スポットライトが照らされたように眩いのだが、それは日当たりだけが理由ではなかった。横溢するヒメウツギでひときわ白く輝いているのだ。その眩さに目を伏せれば、足元に涼しげな青い花が花壇を形成していることに気づくだろう。ヒイラギソウだ。ヤマブキソウとヒイラギソウの共演するこの時期のコツナギ登山道は鳴神山の中でも最も華やかといっていいだろう。ヒイラギソウは春のトリを飾る花だ。つまりヒイラギソウの登場は春の終焉を意味しているのだ。ヒイラギソウが終わる頃登山道沿いの花はぱたりと消えた。春が終わったのだ。

 春が過ぎた山は深緑の影で暗くがらんとしていた。花の終焉とともに人の姿もすっかり減った。ヤブデマリ、コゴメウツギといった樹木の白い花が春の幕引きを知らせるかのように咲いている。生命の去来は毎日のようにあるのだろうが、春の終わりには去っていくものの数が圧倒的に多くなるのだろう。

 春が感動的なのは1年のうちで最も多くの始まりを内包しているからだ。始まりは終わりを孕む。その分喜びも哀しみも大きく、感情の振幅が激しくなる。1ヶ月かけて春を登り、1ヶ月かけて春を降りてきた感じがしたが、春という1年中で最も大きな感情の起伏の山を越えてきたというのが正しいようだ。

 寂しさと空虚さでいたたまれなかったが、私のちっぽけな郷愁などとは無関係に山は動いていた。コアジサイが開花し、カラマツソウやウバユリ、イワタバコやイワギボシの葉が目立ち始めていた。山は着々と夏支度を始めていた。終わりは始まりを孕むのだ。可憐なコアジサイの姿に私はすっかり夢中になった。私は一喜一憂しながら夏の山も越えていくのだろう。おそらく1年を通して大小無数の感情の山を越えていくのだろう。



(2014年6月記)
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春を越える_____鳴神山の春2014年(前篇)


春を登る(前篇)

冬の鳴神山は空が近い。葉が落ちきった山中では空色の光を供にして歩くことが出来た。近年稀にみる膨大な積雪はまるで雲海を歩いている気がした。しかし春夏秋に比べれば冬はやはり侘しい。それでも冬の鳴神山を歩いてきた。華やかな春の訪れに立ち会いたい、冬から春への移り変わりを体感したい。そう思って歩いてきた。

3月も終わろうとするのに雪はなかなか消えなかった。春の兆しが見つからない。雪が深すぎて、花芽は打撃を受けてしまったのだろうか。日差しは徐々に眩しく明るくなってはきている。消えない残雪と深い落ち葉にだんだん不安が募ってくる。
 
落ち葉の中に一つ二つ、緑色の葉を見つけた。カタクリの葉だ。地面にへばりついた葉と葉の間から花茎がすっと伸びてきて、薄紫色の花芽が垂れてきた。春の日差しを浴びたカタクリの花芽は金色に輝き、2枚の葉は鳥の羽根のように見えた。今まさに春に向かって羽ばたこうとしているのだ。鳴神山に春が来た。私は俄然として嬉しくなった。
 
カタクリの出現と同じ時期に、小さな小さな花達が覚醒し始めた。沢沿いの岩を白玉のような輝きで埋め尽くすハナネコノメ、まだまだ冬模様の登山道沿いに4枚の白い花弁を開くユリワサビ。こんな小さな花達があの大雪に負けずに咲いてくれたのだ。まもなくしてカタクリが開花した。落ち葉をかいくぐって薄紫色の花弁を思い切り反らしている。色が戻ってきた。妖艶な薄紫色の花を見てそう思わずにはいられない。そしてニリンソウがあちらこちらに咲き始めた。どんなに小さくても、山の生命は自分の時間を忘れないようだ。

ヤマブキが登山道を鮮やかに照らし始めた頃、山頂のアカヤシオの蕾が赤く熟れてきた。小さな花たちが目覚めてはいたが、山の全体的な印象はまだ冬と変わらない枯れ山だった。岩色の山頂にアカヤシオが開花した。空と岩の間に目も覚めるような春の色の出現だった。ピンク色の羽衣のような花弁は地面に直立するように枝先についていた。春の訪れを知らせに来た妖精が枝に生け捕りされ、空を舞うことを強要されたかのように。

山頂のアカヤシオの開花と同じ頃、麓から新緑の風が吹き上げ、新緑の眩い光が山を包み始めた。空色の胸に新緑が首飾りを垂らす。翠玉の首飾りは何重にも巻かれ空は緑で埋め尽くされていく。身近だった空が新緑によってどんどん遠ざかる。新緑によるアーケードはめまいを覚えるほどの眩さだった。ぐんぐん登る新緑前線は風恋岩(第2石門)に達した。風恋岩から展開する広葉樹の森は翠玉の首飾りでキラキラと輝いている。足元にはワチガイソウやミツバツチグリといった花が続々と生まれている。上から下から私は春に包まれた。この上ない幸福だった。

アカヤシオはピークを迎えた。アカヤシオに彩られた桐生岳は春の淡い青空に映えた。桐生岳から眺める仁田山岳はピンク色に染まり、仁田山岳山頂ではアカヤシオの屋根の下で過ごすことが出来た。仁田山岳から椚田峠への道はアカヤシオのアーケードとなっていた。まさに桃源郷だった。



(2014年6月記)


______雲を踏む



半世紀に1度という大雪後、鳴神山へ赴く。
登山口序盤から辺り一面白銀の世界だった。
歩き慣れた道の面影も踏み跡もなく少し躊躇するが、

敷き詰められた真っ白な雪の上に青白い足跡が帯状に伸びていた。
無言の案内役だ。20cm以上深く沈んでいる先人の足跡をゆっくり辿って行く。
雪が深い箇所もあるが、雪の薄化粧した山肌はところどころ地肌が露わになっていた。
杉林が続く中盤までは柵のような杉ばかりが目につき、視界は縦に切られている。雪の白さよりも杉の幹の色の印象が強い。

杉林を抜けるとがらりと印象が変わる。
視界の上半分を青い空が占め、すり鉢状の山の斜面を雪が厚く覆っている。
真っ白な画用紙の上部に青い絵具を塗っただけの世界は広遠で開放的だった。
50cm超の雪で覆われた厚化粧の山肌は舞妓のなめらかで柔らかなうなじを喚起させられる。
時折うねりをみせる雪肌は雪の波紋のようであった。
白肌に触れた男の指紋の後が消えぬまま残っているかのように。
恐る恐る極上の柔肌に足を踏み入れる。
粉砂糖のような雪に吸い込まれるように足は沈むが硬い地面までは届かず、マシュマロの上に留まり浮かぶ。
沈みもせず、溶けもせず、ただ漂流のみを許される柔らかな女の肌の上をふわふわと浮かぶ。
まるで雪の波間に浮かんでいるようだ。

それにしても一歩ごとに得体のしれない物体に足をとらわれ、ふり払うように歩くのはなかなかの重労働だ。
白銀の砂の下にはアリジゴクが待ち構えているのだろうか。
それとも雪の精だろうか。
雪の下に潜む妖精が私の足に絡み、行く手を阻む。
小さな小さな雪の精が懸命に邪魔しようとする光景に思わずくすっと笑ってしまう。

山が雪色に染まっているからか、冬の空気が透き通っているからか、見上げた空が眩しいほど青く、迫ってくる感じさえする。
青空が落下してきそうだ。雪の波間に揺られながら、自分が雲海を歩いているような気がしてきた。

雪は地上に堕ちた雲なのか。
山に眠る生命を守るため、地下で育んでいる生命達が無闇に踏まれぬよう、雲は雪となって降り積もるのだろうか。
足にふわふわとまとわりついてくるのは雲の精だろう。
行く手を阻んでいるのではなく、新たな生命に気づけ、もっと優しく歩けと叫んでいるのかもしれない。
雲の精は生まれいづる者達の守り神なのだ。

生命の胎動に想いを馳せながら、静かに雲を踏む。
色鮮やかな生命達の舞がもうすぐ始まろうとしている。
雲を踏む。春よ来いと口ずさみながら。


______山を遡上する鮭



あとどの位歩けば空に会えるのだろう。

岩と瓦礫が積まれた沢筋の登山道は植林と雑木林に囲まれて暗く、明るい兆しはなかなか見えてこない。

ちょろちょろと流れる水をよけて歩きながら、この沢筋に水が溢れていた頃を想像してみる。

暗い川底を彷徨っている河鹿。

青空に誘われて懸命に浮上しようとしている岩魚。

否、川を登っているのだ。故郷を求めて遡上する鮭のように。

そんな思いに耽りながら黙々と歩くこと数十分、頭上に遠く点在していた空が行く手の木の間に見えてきた。

冴え冴えとした輝きを放っている空を眺めているうちに喉の渇きを覚える。

山頂に着いたら美味しい水を飲もう。

そんな思いつきに俄然体が元気になる。


無心で最後の急登を登りつめると一気に視界が広がった。

水色の光に覆われた小さな山頂は海にせり出した岬の灯台のようだ。

口を大きく開けて、この山の一番てっぺんの、一番美味しい空気を吸い込む。

空気が体中に浸み込んでゆく。

乾いていたのは喉ではなかったようだ。

山の空気が体内を一巡した頃、体はふっと軽くなり、

頭は憑き物がとれたかのように晴れやかになる。

山の青空に網膜の不浄を洗い流された瞳は青空のように澄み切っていることだろう。

心身を貫く爽快さを感じながら周囲を見渡した。

有名無名の山並が空を区切り、眼下には空色の市街地が広がっている。

水色に染まった市街地は海底のようだった。



海に縁のない県の山の上にいるのに、連想するのはなぜか海のことばかり。

私は海底からここまで登ってきたのではないか。

山頂の美味しい空気を吸うために這い上ってきたのではないか。

そんな思いが私の脳裏を横切るのであった。


海底のような街を車で走り、河口の登山口へ赴き、

美しい空と水のような空気に焦がれて登って行く。

山頂でこの上ない空気、光、空を目から口から肌から吸収し、

全身にまっさらな山の明媚を蓄えて山を下りる。

そして心身に備蓄した明媚が底をつく頃再び山を目指すのだ。

何度でも何度でも。


空と光で満ち溢れている山頂にいつしか焦がれるようになった。

祠を構えた灯台のような山頂は私の第二の故郷となったのだ。

行かなくては。

還らなくては。

故郷に還ろう。

故郷に焦がれる鮭のように。










______光の子


鳴神山通信

 

 風がひと撫でするだけで、秋の葉っぱはたやすく落下してゆく。干からびた橙色の葉っぱは軽く、乱暴に扱えばすぐに粉々になってしまいそうだ。

紅(黄)葉とは葉っぱの最期のことだろうか。艶やかながらも生命の最期の輝きを放とうとしているかの紅(黄)葉を見ていると淋しさと侘しさでいたたまれなくなる。慎重につまんだ葉を日にかざしてみた。眩い光に呼応するかのように秋の葉っぱがきらきらと輝いている。秋の葉っぱは日の影というよりも日そのもののように思えた。そのとき私は自分の思い違いに気づいたのだった。





 春は1年を通して最も多くの生命が生まれる季節だ。山も然り、沢山の生命が息吹を上げる。

たとえば木。木の胎内に眠っていた水が暖かな日差しによって再び身体中に巡り始める。木のてっぺんの一番明るいところの枝の先端に辿り着いた水は光に恋い焦がれ、そして光は水の想いに応える。木の至る所で水と光は恋に落ち、その愛の結晶として葉っぱが生まれるのだ。

春夏を通じて水は絶えず母体から支給される。その豊潤な水によって葉っぱは初々しい新緑から深緑へと緑を育んでゆく。そして来年への身支度を始めるという母体からの指令が届いたとき水の支給は途絶え、そのとき緑の生成も終わるのだろう。

母体にはりめぐらされた水が引き潮のようにひき、地中の胎内へと還るとき、葉っぱから水の象徴であった緑は退いてゆく。そして水が退いたとき、光だけが残るのだ。金、橙、紅 といった錦色は光の子である証なのだろう。





紅(黄)葉は葉っぱの歌だ。水の子に圧倒されてくすぶっていた光の子が我は光の子なりと誇らしげに謳っているのだ。私は目をすまして葉っぱの合唱を聴き入った。静寂で躍然たる生命の鼓舞が聴こえてきた。










プロフィール

鳴神山愛する会

Author:鳴神山愛する会
ようこそ鳴神山へ!
主に季節の見どころ(花メイン)と登山道整備の記録を綴っています。
なにぶん素人ゆえ、花の同定には間違いが多いですがご了承下さい。
行政でもなく、営利目的でもなく、ひたすらに山を愛する山男達の登山道整備を記録しています。
何気なく歩いている山にどれだけ多くの手、愛情が加えられているかを
是非知っていただきたいと思っています。

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