花の呪力

_________私は花に生かされている_________
サイハイラン3


台風一過の7月5日、尾瀬に向かった。
今回の目的は燧ケ岳登頂である。
天気予報はあまり良くなかったが、台風が去って晴れるかもしれないと踏む。
しかし道中は終始雨に降られっぱなし、不安は募る一方だった。
何度か車を停めてネットで雨雲レーダーを確認する。
7時には尾瀬から雨雲が去りそうだという予報を見直して、一か八かで大清水へ向かう。

4時過ぎに大清水に到着。
空がうっすらと明るくなり、
2組のグループが出発の準備をしていた。
背中を押された気がした。
6時台までは雨に降られるかもしれないが、燧ケ岳登山口に着くまでには雨が上がるだろう。

4時半頃、駐車場を発つ。
30分程歩くとぽつぽつと雨が音を立て始め、カメラをしまい合羽を羽織る。
タニウツギやヤグルマソウに遭遇。
バスに追い抜かれるが、バスに乗っていたらこれらの花に会えなかっただろうと、
私はご機嫌だった。

一ノ瀬に到着する頃から雨足が強くなった。
ここから三平峠はちょっとした登り坂が続くが、ここでかなり強く雨に打たれる。
これも想定内だ。そのうち雨も上がるだろう。

6時半過ぎに三平峠に到着。
雨はどんどん強くなるばかりだった。
閉まっている売店の下で雨宿りをしていると、山小屋の方が近寄ってきて、
山小屋の玄関にどうぞと声をかけてくれた。
好意に甘えて私は玄関でしばらくの間雨宿りをした。

雨は少し勢いを落とし、時折青空も見えてきたので、山小屋を発った。
尾瀬沼沿いに出ると、リュウキンカ、コバイケイソウ、水芭蕉、ハクサンチドリなど湿原の花、高山の花が出現してきた。
俄然テンションが上がる。
そのうえ、二重の虹までが見えてきた。
これは幸先がいい。今日はきっといい日になるはずだ。
二重虹


長蔵小屋を経て、大江湿原の分岐に出る。
ミツガシワやリュウキンカ、ハクサンチドリ、タテヤマリンドウ、イワカガミ、ヒメシャクナゲが美しい。
写真を一通り撮り終えて、長英新道入口へと向かう。
一旦止んだと思われた雨が再び降り出し、雨足も強くなってきた。

7時半過ぎに長英新道入口着。
雨は一向に降りやまない。
先程まで見えた青空はどこかに消えてしまい、灰色の雲が尾瀬沼を覆っていた。
もちろん、燧ケ岳の姿も見えない。

逡巡した末、今回は燧ケ岳登頂を断念した。
2時間以上雨に降られて、私の気合いは削がれてしまったようだ。
ならば、沼尻から尾瀬ヶ原に向かってみるかと思うのだが、雨足は一向に弱まらず、
元来た道を戻った。

大江湿原の方へ引き返すと、青空が広がり始めた。
天気はどんどん回復し、燧ケ岳の全貌さえ拝むことが出来た。
私は両手を腰に当て、途方に暮れた。
もう少し、度胸があれば。
もう少し、予報を信じる力があれば。
これから登頂するには時間が遅すぎた。
燧ケ岳の姿を横目で見やりながらとぼとぼと下山し始めた。

燧ケ岳

意外かもしれないが、私は花に触れることと同じくらいに山を歩くことも好きだ。
今日も沢山の花に触れることが出来たが、一番の目的であった燧ケ岳登頂は果たせずに終わった。
終日雨なら諦めもつくが、登頂を断念した後に頭上に広がった青空と目撃してしまった燧ケ岳の姿。
後悔やらなにやらで、私の体は鉛のように重かった。

一ノ瀬に戻る。
行きで撮れなかった花の写真を撮ろうと思い、歩いて帰ることにした。
暗い早朝では気づかなかったが、思いの外花がある。
写真を撮りながらふらふらと歩いていると、ふと緋色の花が目に飛び込んできた。
サイハイラン

釣り竿のような茎に、緋色のほうき星のような花がいくつか風にゆられているかのようについている。
それは七夕の短冊のようにも見えた。
その不思議な形状に見入っているうちに、その花の素性に行きあたった。
サイハイランだ。
どうして、この時期に、この場所で邂逅できたのか。

サイハイランは6月初旬に桐生で花仙人と見たことがあった。
しかし、それはもう花期が終わり、枯れてしまった姿だった。
あのとき、どうして1週間前に見に行かなかったのか、私は激しく後悔した。
花との邂逅は一期一会の場合が多く、
花の一番美しいときに居合わせるのはなかなか困難なのだ。
だからこそ、好機を逸してはいけないのに。

サイハイラン2

その見逃してしまったサイハイランが目の前にある。
会いたくてやまなかった、幻の花だ。
涙がこぼれた。
生きていて良かった。
そう思った。

時折、思い入れの深い花に巡り合うことがある。
どうしても見たい花、今年も見たい花、きっかけは様々だがそう思える花がある。
そんな花に巡り合ったとき、私の中で時は止まってしまう。
花以外のものは何も目に入ってこない。
山行中なので長居をすることはないが、その短い時間が私には永遠のように感じられるのだ。
私はいつも花に試されているような気がする。
己に辿り着けることが出来るのか、お前の想いは如何ほどなのかと。
そして、己に再会できるほどの力があるのかと。

それは、物言わぬ花の放つ言葉、のようであった。
それらの問いかけは徐々に命令口調、まじないへと変わっていく。
お前は己に辿り着け。
想いを深く持て。
来年も再来年も再会できるだけの力を持て。
そのために生き続けよ。

私が山を好きなのは、また来たい、もっと生きたいと強烈に思えるからだ。
山に咲く花々に、生きろ生きろと何度もまじないをかけられたいからだ。

もっと山を歩き続けたい。
もっと花に巡り合いたい。
私に甘美なまじないをかけてくれる花に会いたい。
生きることの喜びで輝きを放つ花に会うために、私は山を歩き続けるだろう。




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春を越える_____鳴神山の春2014年(後篇)

春を降りる(後篇)

 アカヤシオが終焉を迎える頃、山頂に新緑前線が達した。わずかに残っている薄桃色のアカヤシオはどんどん緑に凌駕されていく。新緑前線が到来する前に、春一番にアカヤシオが咲くのは理にかなっている。緑があったらアカヤシオはその美しさを存分に発揮出来ないだろう。アカヤシオの後を継いで咲き始めたミツバツツジの濃いピンク色は新緑によく映えていた。ミツバツツジは新緑の時期に相応しい。

 ミツバツツジが咲き始めた頃、ミツバツツジと同じく濃いピンク色のカッコソウが咲き始めた。こちらも大雪に負けずに沢山咲いた。ロープ越しに眺めるカッコソウは他の山野草と違って距離感があり、なんとなく花壇にある花を眺めているという印象が強い。しかしカッコソウが登山道に普通に咲いているところを想像してみれば、この山野草がいかに傑出した花かが容易に理解できる。カッコソウはその形といい、その色といい、山野草の範疇を超えた美しさを誇る。その稀有な美しさが自らを滅ぼす一因となってしまったのは美しいものたちの哀しい宿命だろうか。

 それにしても新緑の時期に咲く花達は緑に映える。カッコソウしかり、ヤマブキソウしかり。ヤマブキソウの大きな黄色の花弁を看過する人は誰もいないだろう。ニリンソウの後を継ぐ形でヤマブキソウが咲きだしたが、ニリンソウの終焉に寂しさを感じる暇はなかった。生命の終焉以上に新たな生命が出現しているのだから。樹木ではヤマブキの代わりに白いヒメウツギが咲き始めていた。白い花だが黄色のヤマブキに優るとも劣らない華やかさがあった。

 植林で大方暗いコツナギ登山道の中で日当たりのいい場所がある。照明を落とした劇場に突如スポットライトが照らされたように眩いのだが、それは日当たりだけが理由ではなかった。横溢するヒメウツギでひときわ白く輝いているのだ。その眩さに目を伏せれば、足元に涼しげな青い花が花壇を形成していることに気づくだろう。ヒイラギソウだ。ヤマブキソウとヒイラギソウの共演するこの時期のコツナギ登山道は鳴神山の中でも最も華やかといっていいだろう。ヒイラギソウは春のトリを飾る花だ。つまりヒイラギソウの登場は春の終焉を意味しているのだ。ヒイラギソウが終わる頃登山道沿いの花はぱたりと消えた。春が終わったのだ。

 春が過ぎた山は深緑の影で暗くがらんとしていた。花の終焉とともに人の姿もすっかり減った。ヤブデマリ、コゴメウツギといった樹木の白い花が春の幕引きを知らせるかのように咲いている。生命の去来は毎日のようにあるのだろうが、春の終わりには去っていくものの数が圧倒的に多くなるのだろう。

 春が感動的なのは1年のうちで最も多くの始まりを内包しているからだ。始まりは終わりを孕む。その分喜びも哀しみも大きく、感情の振幅が激しくなる。1ヶ月かけて春を登り、1ヶ月かけて春を降りてきた感じがしたが、春という1年中で最も大きな感情の起伏の山を越えてきたというのが正しいようだ。

 寂しさと空虚さでいたたまれなかったが、私のちっぽけな郷愁などとは無関係に山は動いていた。コアジサイが開花し、カラマツソウやウバユリ、イワタバコやイワギボシの葉が目立ち始めていた。山は着々と夏支度を始めていた。終わりは始まりを孕むのだ。可憐なコアジサイの姿に私はすっかり夢中になった。私は一喜一憂しながら夏の山も越えていくのだろう。おそらく1年を通して大小無数の感情の山を越えていくのだろう。



(2014年6月記)

春を越える_____鳴神山の春2014年(前篇)


春を登る(前篇)

冬の鳴神山は空が近い。葉が落ちきった山中では空色の光を供にして歩くことが出来た。近年稀にみる膨大な積雪はまるで雲海を歩いている気がした。しかし春夏秋に比べれば冬はやはり侘しい。それでも冬の鳴神山を歩いてきた。華やかな春の訪れに立ち会いたい、冬から春への移り変わりを体感したい。そう思って歩いてきた。

3月も終わろうとするのに雪はなかなか消えなかった。春の兆しが見つからない。雪が深すぎて、花芽は打撃を受けてしまったのだろうか。日差しは徐々に眩しく明るくなってはきている。消えない残雪と深い落ち葉にだんだん不安が募ってくる。
 
落ち葉の中に一つ二つ、緑色の葉を見つけた。カタクリの葉だ。地面にへばりついた葉と葉の間から花茎がすっと伸びてきて、薄紫色の花芽が垂れてきた。春の日差しを浴びたカタクリの花芽は金色に輝き、2枚の葉は鳥の羽根のように見えた。今まさに春に向かって羽ばたこうとしているのだ。鳴神山に春が来た。私は俄然として嬉しくなった。
 
カタクリの出現と同じ時期に、小さな小さな花達が覚醒し始めた。沢沿いの岩を白玉のような輝きで埋め尽くすハナネコノメ、まだまだ冬模様の登山道沿いに4枚の白い花弁を開くユリワサビ。こんな小さな花達があの大雪に負けずに咲いてくれたのだ。まもなくしてカタクリが開花した。落ち葉をかいくぐって薄紫色の花弁を思い切り反らしている。色が戻ってきた。妖艶な薄紫色の花を見てそう思わずにはいられない。そしてニリンソウがあちらこちらに咲き始めた。どんなに小さくても、山の生命は自分の時間を忘れないようだ。

ヤマブキが登山道を鮮やかに照らし始めた頃、山頂のアカヤシオの蕾が赤く熟れてきた。小さな花たちが目覚めてはいたが、山の全体的な印象はまだ冬と変わらない枯れ山だった。岩色の山頂にアカヤシオが開花した。空と岩の間に目も覚めるような春の色の出現だった。ピンク色の羽衣のような花弁は地面に直立するように枝先についていた。春の訪れを知らせに来た妖精が枝に生け捕りされ、空を舞うことを強要されたかのように。

山頂のアカヤシオの開花と同じ頃、麓から新緑の風が吹き上げ、新緑の眩い光が山を包み始めた。空色の胸に新緑が首飾りを垂らす。翠玉の首飾りは何重にも巻かれ空は緑で埋め尽くされていく。身近だった空が新緑によってどんどん遠ざかる。新緑によるアーケードはめまいを覚えるほどの眩さだった。ぐんぐん登る新緑前線は風恋岩(第2石門)に達した。風恋岩から展開する広葉樹の森は翠玉の首飾りでキラキラと輝いている。足元にはワチガイソウやミツバツチグリといった花が続々と生まれている。上から下から私は春に包まれた。この上ない幸福だった。

アカヤシオはピークを迎えた。アカヤシオに彩られた桐生岳は春の淡い青空に映えた。桐生岳から眺める仁田山岳はピンク色に染まり、仁田山岳山頂ではアカヤシオの屋根の下で過ごすことが出来た。仁田山岳から椚田峠への道はアカヤシオのアーケードとなっていた。まさに桃源郷だった。



(2014年6月記)


______雲を踏む



半世紀に1度という大雪後、鳴神山へ赴く。
登山口序盤から辺り一面白銀の世界だった。
歩き慣れた道の面影も踏み跡もなく少し躊躇するが、

敷き詰められた真っ白な雪の上に青白い足跡が帯状に伸びていた。
無言の案内役だ。20cm以上深く沈んでいる先人の足跡をゆっくり辿って行く。
雪が深い箇所もあるが、雪の薄化粧した山肌はところどころ地肌が露わになっていた。
杉林が続く中盤までは柵のような杉ばかりが目につき、視界は縦に切られている。雪の白さよりも杉の幹の色の印象が強い。

杉林を抜けるとがらりと印象が変わる。
視界の上半分を青い空が占め、すり鉢状の山の斜面を雪が厚く覆っている。
真っ白な画用紙の上部に青い絵具を塗っただけの世界は広遠で開放的だった。
50cm超の雪で覆われた厚化粧の山肌は舞妓のなめらかで柔らかなうなじを喚起させられる。
時折うねりをみせる雪肌は雪の波紋のようであった。
白肌に触れた男の指紋の後が消えぬまま残っているかのように。
恐る恐る極上の柔肌に足を踏み入れる。
粉砂糖のような雪に吸い込まれるように足は沈むが硬い地面までは届かず、マシュマロの上に留まり浮かぶ。
沈みもせず、溶けもせず、ただ漂流のみを許される柔らかな女の肌の上をふわふわと浮かぶ。
まるで雪の波間に浮かんでいるようだ。

それにしても一歩ごとに得体のしれない物体に足をとらわれ、ふり払うように歩くのはなかなかの重労働だ。
白銀の砂の下にはアリジゴクが待ち構えているのだろうか。
それとも雪の精だろうか。
雪の下に潜む妖精が私の足に絡み、行く手を阻む。
小さな小さな雪の精が懸命に邪魔しようとする光景に思わずくすっと笑ってしまう。

山が雪色に染まっているからか、冬の空気が透き通っているからか、見上げた空が眩しいほど青く、迫ってくる感じさえする。
青空が落下してきそうだ。雪の波間に揺られながら、自分が雲海を歩いているような気がしてきた。

雪は地上に堕ちた雲なのか。
山に眠る生命を守るため、地下で育んでいる生命達が無闇に踏まれぬよう、雲は雪となって降り積もるのだろうか。
足にふわふわとまとわりついてくるのは雲の精だろう。
行く手を阻んでいるのではなく、新たな生命に気づけ、もっと優しく歩けと叫んでいるのかもしれない。
雲の精は生まれいづる者達の守り神なのだ。

生命の胎動に想いを馳せながら、静かに雲を踏む。
色鮮やかな生命達の舞がもうすぐ始まろうとしている。
雲を踏む。春よ来いと口ずさみながら。


______山を遡上する鮭



あとどの位歩けば空に会えるのだろう。

岩と瓦礫が積まれた沢筋の登山道は植林と雑木林に囲まれて暗く、明るい兆しはなかなか見えてこない。

ちょろちょろと流れる水をよけて歩きながら、この沢筋に水が溢れていた頃を想像してみる。

暗い川底を彷徨っている河鹿。

青空に誘われて懸命に浮上しようとしている岩魚。

否、川を登っているのだ。故郷を求めて遡上する鮭のように。

そんな思いに耽りながら黙々と歩くこと数十分、頭上に遠く点在していた空が行く手の木の間に見えてきた。

冴え冴えとした輝きを放っている空を眺めているうちに喉の渇きを覚える。

山頂に着いたら美味しい水を飲もう。

そんな思いつきに俄然体が元気になる。


無心で最後の急登を登りつめると一気に視界が広がった。

水色の光に覆われた小さな山頂は海にせり出した岬の灯台のようだ。

口を大きく開けて、この山の一番てっぺんの、一番美味しい空気を吸い込む。

空気が体中に浸み込んでゆく。

乾いていたのは喉ではなかったようだ。

山の空気が体内を一巡した頃、体はふっと軽くなり、

頭は憑き物がとれたかのように晴れやかになる。

山の青空に網膜の不浄を洗い流された瞳は青空のように澄み切っていることだろう。

心身を貫く爽快さを感じながら周囲を見渡した。

有名無名の山並が空を区切り、眼下には空色の市街地が広がっている。

水色に染まった市街地は海底のようだった。



海に縁のない県の山の上にいるのに、連想するのはなぜか海のことばかり。

私は海底からここまで登ってきたのではないか。

山頂の美味しい空気を吸うために這い上ってきたのではないか。

そんな思いが私の脳裏を横切るのであった。


海底のような街を車で走り、河口の登山口へ赴き、

美しい空と水のような空気に焦がれて登って行く。

山頂でこの上ない空気、光、空を目から口から肌から吸収し、

全身にまっさらな山の明媚を蓄えて山を下りる。

そして心身に備蓄した明媚が底をつく頃再び山を目指すのだ。

何度でも何度でも。


空と光で満ち溢れている山頂にいつしか焦がれるようになった。

祠を構えた灯台のような山頂は私の第二の故郷となったのだ。

行かなくては。

還らなくては。

故郷に還ろう。

故郷に焦がれる鮭のように。










プロフィール

鳴神山愛する会

Author:鳴神山愛する会
ようこそ鳴神山へ!
主に季節の見どころ(花メイン)と登山道整備の記録を綴っています。
なにぶん素人ゆえ、花の同定には間違いが多いですがご了承下さい。
行政でもなく、営利目的でもなく、ひたすらに山を愛する山男達の登山道整備を記録しています。
何気なく歩いている山にどれだけ多くの手、愛情が加えられているかを
是非知っていただきたいと思っています。

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