______山を伝う蝶     

(去年の6月、初めて鳴神山を訪れてから3回目のときの経験を元に書いた文です)


山に近づくにつれて県道は細くなり、蛇行し始める。面前には緑の岩壁のような山がそびえ、日が射してはいるが山頂を厚い雲が覆っている。ハンドルを握りながら私はかすかに吐き気を催した。山は怖い。何度訪れても山への恐怖心は薄れることがなく、緊張感は初々しいままだった。


登山口近くの駐車スペースにはよく見かける2台の車が停まっていた。花の山という異名を持つこの山は春にはハイカーで賑わうが、花の季節を過ぎた山は不気味なほど静かになる。登山靴を丁寧に履き終えて私は深く深呼吸をした。大枚はたいて買った登山靴は重く歩きづらいが、重装備しているという自覚が私に少しだけ勇気をくれる。


登山口を過ぎてまもなくすると濃緑の陰に赤茶けた山道が見えてくる。高峻なスギ林の間を貫く山道は日が遮られて薄暗く、山道に添う沢は白い飛沫を上げて岩場を銀色に洗いながら流れ落ちている。沢のそばに散在する巨大な岩は苔に覆われ、沢伝いに立ち並ぶ広葉樹が日の代わりに緑色の提灯の役目を果たしている。見上げた空は遠く、ここは森の底のようだ。

 幽々たる森の佇まいにおじけづきながら私は一歩一歩足を前に出す。序盤から勾配がきつい山道を進むうちに心拍数が高まり息が上がってくる。沢に併走するように敷かれた山道では喧々たる沢の音しか聞こえない。沢の音は厳しく懐が広い。他の音を一切許さず、それでいて全ての音を許容してしまう。沢の音に不安や恐怖、その他の邪念を一掃された私は目の前の数十センチ先だけを追い始めた。草薮から現れた小さな白い蝶が私の目の前をひらひらと横断し、登山靴の前を土色の蜥蜴が横切ってゆく。軽装な山の住人に微かな羨望を覚えながら、私は重い登山靴を一歩一歩前に進ませる。

併走していた沢が消えると、森は音もなく眠っているようだった。スギ林が失せ、広葉樹に濾過されたエメラルド色の日差しが燦々と私に届く。山頂が近い。沢の音にかき消されていた自分の足音と荒い息遣いが露顕し私はたじろいだ。眠っている森を叩き起こすような無粋な足音は自分がたった一人であることを私に思い知らせる。ずっと付き添ってくれた沢のおかげで孤独を感じずにここまで歩いてこれたのだ。私は沢に感謝しながら歩いた。もはや音がなくとも怖くはなかった。私がするべきことと考えるべきことは前進することだけなのだ。


どこからか水の音が聞こえてきた。沢の音よりも柔らかくてきめ細やかな音が辺りを充満し始めた。今まで聞いたことのない音だ。雨だろうか。見上げた空は乾いている。そのとき木の間の空が小刻みに震えているのに気づいた。空が震えているのではなく、森が震えているのだ。風だ。山の中で初めて聞いた風の渡る音だった。風に撫でられた緑の天井は気持ち良さそうに揺れている。まるで緑の沢床に立っているようだった。丈の高い木々の葉をさらさら奏でた風が地べたに貼りついている私にも訪れた。清洌な風が汗で濡れた肌に触れ、帽子を脱ぐようにといざなう。風の意のまま帽子を脱ぐと頭皮にまとわりつく髪を風が梳いてゆく。倒木に腰をかけて風に身を任せていると、土色の落ち葉の上に白い花びらが散乱しているのに気づいた。頭上を見上げた。白い花の持ち主の木を探したくとも丈の高い木は一様に同じに見える。自分のちっぽけさにやりきれなくなり、視線を登山靴に落とした。そのとき白い花のような蝶が私の目の前を横切り、悠然と草薮の中に消えていった。先程の蝶が山を登ってきたのだろうか。私は丈の高い木々を再び見上げた。木から見れば、いや山から見れば私も蝶も山に棲息する同じ生き物に見えるのだろう。蝶も私も前に進むことしか出来ないちっぽけな生き物なのだ。私は立ち上がり明るい山頂を見上げた。前に進もう。あの白い蝶が山頂で待っていてくれるかもしれない。私は大きく足を踏み出した。

 


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鳴神山愛する会

Author:鳴神山愛する会
ようこそ鳴神山へ!
主に季節の見どころ(花メイン)と登山道整備の記録を綴っています。
なにぶん素人ゆえ、花の同定には間違いが多いですがご了承下さい。
行政でもなく、営利目的でもなく、ひたすらに山を愛する山男達の登山道整備を記録しています。
何気なく歩いている山にどれだけ多くの手、愛情が加えられているかを
是非知っていただきたいと思っています。

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